
ピトケアン諸島をご存じだろうか。南太平洋に残る英国の海外領土であり、映画になった「バウンティ号の反乱」で船長を追放した乗組員たちが、英海軍の追跡を避けて逃げ込んだという島々だ。唯一の有人島であるピトケアン島に、今も乗組員の子孫ら50人程度が暮らしているという。
さて、英国が環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)への参加を検討し始めた2018年2月、「南太平洋の絶海の孤島が英国TPP参加の切り札!?」と、この島のことを記事にしたことがある。なぜ環太平洋の経済圏であるTPPに欧州の英国が参加するのかと交渉筋に聞いたところ、「関係ないとは言い切れないよ」と教えてくれたからだ。
もちろん茶飲み話である。当時は英国の参加意向自体が眉唾物だった上、TPPは加盟国が合意すれば環太平洋諸国でなくても参加できる仕組みのため、英国領が太平洋にあるかないかは特に問題にならない。とはいえ、かつて〝七つの海〟を支配した大英帝国の名残が、TPPと英国の懸け橋になるかもしれないという話にはロマンがあった。
あれから5年、筆者の期待とは裏腹にピトケアン諸島が歴史の表舞台に躍り出ることはなかった。しかし、英国のTPP参加は今年3月末に加盟国が合意に至り、7月開催の定例閣僚会合で正式に承認される見込みという。欧州連合(EU)からの離脱を受け、欧州という枠を超え世界各国と連携を強めようという戦略に基づくものだが、しばらく通商交渉の取材から遠ざかっていた私には率直に驚きだった。
日本にとっても英国の参加は大きい。TPPは対立する中国と台湾が相次いで加盟申請し、米中がぶつかる「新冷戦」のはざまで揺れる。中国は強大な経済力を背景に加盟国の取り込みを進めており、中国の加盟に慎重な日本はいずれ孤立しかねない。同じ先進国として価値観を共有する英国の参加は心強いだろう。
英国は旧宗主国としてグローバルサウス(南半球を中心とした途上国)の代表であるインドへの影響力が大きく、将来的なインドのTPP加盟にも道を開く可能性がある。
数年以内の台湾有事が現実味を帯びるなど、国際情勢は風雲急を告げている。南洋の楽園に思いをはせたあの頃とは、まさに隔世の感がある。
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【プロフィル】田辺裕晶
平成13年入社。21年から経済部。通商産業やエネルギー、財政金融などの担当を経て、今年2月からは流通や自動車、電機といった民間分野の統括キャップ。