
本コラムは徳川四天王を一人ずつ紹介してきました。次は酒井忠次の番ですが、今回は例外。忠次と並んで徳川家康の前半生を支えた石川数正を取り上げましょう。
三河松平家に最も古くから仕えていた家臣を、『柳営秘鑑』は「安祥譜代」と分類し、これに当てはまるのは7家としています。石川家は酒井・本多とともに、その一つに数えられていて、代々が松平家の「おとな」(重臣)として仕えていたようです。
数正は天文2(1533)年の生まれ。9歳年少の主君が駿府で生活していた時期から、側(そば)近くに仕えていました。家康が三河で独立すると、今川氏真と交渉して正室・築山殿を取り戻したり、織田信長と交渉して清洲同盟締結の下準備をしたりと、いわば外交面で才能を発揮しました。頭が切れ、弁舌爽やか。さらには誠実な人柄(もしくはそう見せる才覚)というような人間像が浮かびます。
永禄6(1563)年の三河一向一揆で、父は一揆方に付いたようですが、数正は家康側へ。父の進退の影響か、石川本家は叔父の家成が継ぎましたが、家康の数正への信頼は揺るがず、酒井忠次・石川家成に次ぐ徳川家中第3の立場を占めました。やがて叔父に代わり西三河の家臣たちを統率するようになります。東三河は酒井忠次がまとめていたので、強大な武田家と必死に戦っていた当時の家康の右腕は忠次、左腕が数正、ということができます。家康が浜松城に本拠を移すと、岡崎城を任された嫡男の信康の後見を務めました。信康が自害した後は、岡崎の城代を任されました。
本能寺の変後に羽柴秀吉が台頭すると、数正は秀吉との交渉を担当しました。天正12(1584)年、秀吉と家康が激突した小牧・長久手の戦いにも参加。けれども同時に家康に対し、秀吉との和睦を強く提言したといわれます。実際に交渉に当たっていただけに、秀吉勢力の急激な膨張を、客観的に評価できたのでしょう。
そして翌13年11月、事件が起きます。数正は徳川家を出奔し、秀吉の直臣になる道を選んだのです。家康が秀吉に従属したのはこの1年後のことで、数正出奔時は2人は冷戦のまっただ中。秀吉サイドから数正への働きかけは、家康陣営の切り崩しを目的として、当然あったはずです。ではなぜ数正が誘いに応じたのか。その理由が定かではありません。
小説家・山岡荘八の代表作といえば、ご存じ『徳川家康』です。この作品は昭和25年から新聞連載が始まり、42年に完成して、大ベストセラーとなりました。中高生だったぼくも夢中になって読みましたが、ここで山岡は「自身が裏切り者の泥をかぶることにより、徳川家と家康を守った石川数正」像を熱く描きました。それが直接の原因かどうか、この数正の行動を、どうも世間は深読みしたがるようです。
しかしながら、冷静に見てみれば、秀吉は家康陣営にダメージを与えたい。数正は自分がより活躍できる場を求めたい。この両者の利害が一致したのだ、と解釈することは十分に可能です。ごく普通に理解できるなら、それに越したことはない。小説は複雑かつ斬新な解釈をするところに妙味がありますが、歴史学がそれに引きずられてはいけません。
当時の秀吉の行動を見ると同じような事例はいくつも検出できます。あえて分類すると、A計算ずくのヘッドハント。他家の重臣を秀吉直臣に取り立て、その家にダメージを与える。典型例は島津家から伊集院忠棟(ただむね)(幸侃(こうかん))を独立させた一件でしょう。柳川城主に任じた立花宗茂も大友家からの引き抜きと考えることができますし、鍋島直茂や津軽為信の独立を承認したのも、秀吉の恩義を強調する狙いが見え隠れします。小早川隆景の重用だって、毛利家への牽制(けんせい)の意味合いがあったのかも。
Bとして、秀吉が純粋に「家来に加えたい!」と触手を伸ばす事例。丹羽長秀が没すると、長束正家(五奉行の一人)とか上田重安(宗箇(そうこ)。勇士かつ茶人・造園家)らを引き抜いています。伊達家の茂庭(もにわ)綱元も随分と気に入られていたようです。前述の立花宗茂はむしろこっちかな。
こうした実例を見てみると、数正が特別なわけではない。彼としては、現代のビジネスパーソンが転職するように、家康より秀吉に将来性を感じたのでしょう。それだけのことだと思います。
一方で秀吉はどうか。家康に精神的なダメージを与え、その上で徳川家の情報もがっちり入手した。それでもう、数正に興味はなくなったんじゃないかな。河内で取りあえず8万石を与え、小田原の北条氏を滅ぼすと、関東に移る徳川を見張れ、といわんばかりに信州松本に10万石。当時の秀吉は朝鮮出兵を第一に考えていますので、重要な大名は畿内か西国に配置します。松本10万石は微妙ですね。
徳川家の方も、さほど石川家に興味なかったんじゃないでしょうか。数正は文禄2(1593)年に61歳で死去し、子の康長が松本を受けつぎます。でも秀吉が亡くなったからといって、徳川は石川家をいじめたりしていない。伊集院忠棟なんて、「太閤殿下の威光を傘に、よくも偉そうにしておったな!」って感じで、殿さまの島津忠恒自らに成敗されているのに。でも石川家にはなにもなし。まあ結局は、慶長18(1613)年の忘れた頃に、大久保長安事件に連座して改易されるのですけれども。
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松本城
戦国時代、信濃守護の小笠原氏は松本盆地東部の林城を居城とし、その支城の一つだった深志城が松本城の前身とされる。やがて武田信玄が小笠原氏を追放すると、武田氏は林城を破却し、深志城に馬場信春を置いて松本盆地を支配した。時代が下り豊臣秀吉が小田原征伐を成功させると、この城には石川数正が入城し、今も残る天守や城郭・城下町の整備を行った。石高不相応に立派な城を築いたのは、やはり関東に移った徳川家康への抑えのためだろう。
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【プロフィル】本郷和人
ほんごう・かずと 東大史料編纂(へんさん)所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。
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