はまる現代短歌の恋模様 「キャッチボール」の魅力

31文字に喜怒哀楽を込める短歌。特に若年層の間で人気が高いのが、話し言葉などで軽やかに「恋模様」などを詠む現代短歌だ。今回は現代短歌の世界で注目される木下龍也さんと鈴木晴香さんによる、艶めかしくて痛切な〝共同作業〟の魅力を紹介したい。

この1冊だけで十分だろう。現代短歌を牽引(けんいん)する木下龍也さんが、恋愛短歌の名手、鈴木晴香さんを指名して、短歌(相聞歌)のキャッチボールだけで構築した虚構の世界『荻窪メリーゴーランド』(太田出版)が圧倒的だ。

散文ではなく短歌によって、読者を思い切り引きずりまわしてみたいという、サディスティックな野望すら感じさせる歌集である。

ふたりは、恋愛を心棒としたメリーゴーランドをゆっくりと回し始める。恋愛を心棒としたのは、自分の生きる時代に寄り添おうとする歌うたいとしては当然のことだろう。どんな時代であろうと、恋愛は生の中心テーマであり続ける。恋愛こそが人間を洗練させ、時に狂気に引きずり込み、かつ種としての存続を可能にさせる唯一無二のエンジンなのだから。

本書において、「くちづけるとは渡しあうこと」から「二度目のはじめましてをしよう」まで、すなわち、恋の始まりから破局まで、11のお題を設定してふたりは短歌を交換する。それは明朝体とゴシック体のふたつで印刷されているものの、どちらが木下さんで、どちらが鈴木さんかは定かではない。恋の始まりを思わせる歌、ゴシック体の《「いつか海辺に住みたい」に「ね」を添えてふたりの夢をひとつ増やした》や《ぼくの肩を頭置き場にしてきみは斜めの夜をご覧ください》は果たしてどちらの作なのか。

恋の始まりの時期にあっても、異様な雰囲気を漂わせる歌もある。これもゴシック体だ。《参列者めいたぼくらが砂浜で見上げる月は喪主めいている》

鮮烈なイメージだ。ここに流れてくるのは童謡「月の沙漠」のような情緒的な音楽ではなく、作曲家シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」のごとき不穏な音楽である。この恋愛には、すでに狂気がしのびよりつつある。

ふと思う。歌を交換するさい、ふたりの間にはプロレス的な打ち合わせがあったのか、それともガチンコの勝負だったのか、と。まあ、そんな詮索はヤボというものか。読み進めるうちに、狂気をはらんだ飛び切り上等なフランス映画を思い出した。ジャン=ジャック・ベネックス監督の「ベティ・ブルー」である。

海に臨むバンガローで小説を書きながらペンキ塗りをしている男が、ふらりと現れたセクシーで情緒不安定な少女と恋に落ちる。ふたりは激しい肉欲に耽(ふけ)り、その結果、少女は妊娠する。そうした時の流れの中で、ふたりの夢はひとつずつ砕けてゆき、ついに少女の心は壊れてゆく…。

勝手な想像だが、ふたりの心の底にこの映画があったからこそ、響きあう短歌を投げ合うことができたのかもしれない、と感じた。歌集にはゴシック体でこんな歌が。

《脱がすときわずかに腰をベッドから浮かせてくれるやさしさが好き》《交わっているのにもっとほしくってポニーテールをしっかりつかむ》。なんとなまめかしい歌だろう。

他者に『荻窪メリーゴーランド』はどんな作品かと問われたら、私は迷うことなく短歌版の「ベティ・ブルー」です、と答えるだろう。歌集の後半には明朝体でこんな歌が。

《本棚に村上がまた増えてゆく『コインロッカー・ベイビーズ』のほう》

春樹ではなく龍のほう。固有名詞の扱いに抜群のセンスを感じさせる。同時に、いよいよふたりの関係が狂気に縁どられた悲劇に突き進むことを予感させる。そして、おそらく女性の前で悲劇は起こる。これも明朝体だ。

《映画のよう 最前列で観ることは初めてだから目は開けたまま》